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CommunityとArt 

特別公開ラウンドテーブル:
<コミュニティアートの今~日英の対話から~>に参加してきました。

第一部では、アート・カウンシル・イングランド・イーストミッドランド・チェアの、フランソワ・マタラッソさんによる基調講演。
第二部では、伊地知裕子さん(クリエイティブアート実行委員会)と村田達彦さん(遊工房/西荻まちメディア)からの事例報告
第三部では、コミュニティアートの現状と課題を、フランソワ・マタラッソさん、伊地知裕子さん、村田達彦さん、小林真理さん(東京大学人文社会系研究科文化資源学)和多利浩一さん(青山学院大学総合研究所/ワタリウム美術館)を中心に話し合われました。

主催は、
青山学院大学総合研究所(青山文化研究プロジェクト)
青山学院大学総合文化政策学部(総合文化政策学会)
東京大学(日本学術振興会人文社会科学振興プロジェクト
「都市政策の課題と芸術文化の役割に関する研究」グループ)

コーディネータは、鳥越けい子さん(青山学院大学総合文化政策学部)



私にCommunityArt…という意識は全く無いものの、日頃、私が関わりを持って進めている「場づくり」がCommunityArtと呼ばれることが多くあります。
PlanterCottageという場づくりでは、場につくられる記憶とそこに発生する様々な関係性を「コトとしてのArt」として実現することを目指してはいるけれど、多少の違いはあろうが、それもArtだと思ってきました。
確かに、常日頃、Artは変化せざるを得ないと思ってはきたものの、それは単に言葉があれば解決されるとは、もちろん思ってはいません。

今、自分が感じている「変化せざるを得ない」ものとは、Artなのか?CommunityArtなのか?ではなくて、どうやら「それらを分かつ何か…」であるということをとても強く感じつつ、CommunityArtを語るより先に、「Artについて」そして「Community」について真剣に考え、話す必要があるのではないだろうか・・・と思う一日となりました。


Artに惹かれ、今もその可能性を信じ追い求めている私にとって、ArtとCommunityArtとの間に境界線はありませんし、今後もそれは必要ないと思っています。とは言っても、既に社会にはCommunityArtという言葉は存在しているし、今後も、CommunityArtの解釈は変化しつつ、しかし、CommunityArtという言葉がなくなることは当分の間は無いだろうとも思います。

私はなぜCommunityがArtを選択し、CommunityArtという言葉を導き出すことになったのか?については少なからずの興味を持っています。

それがなぜCommunityDesignではなくて、CommunityArtなのか。
ここでArtが選択されていなければ、少なくとも私がここに介在することはもっともっと後になっていた・・・、もしくは、ここに興味を持つことはなかったのかもしれません。

20代の後半のこと…、私には、「Artを生きる術としたい」と想いがあるものの、それに比較して、その想いの背景に必要不可欠な、「なぜ?」「何処で?」が非常に希薄であることに気付きました。
それはちょうど、美術館や画廊といった、いわゆる既存のアートマーケットのあり方に疑問を感じ始めていた頃…
今思うと、考えるまでも無く明確に存在すると思っていた「自分が生きる社会」について、自分は今まで全く考えていなかったことに気が付いたのがその時だったのだと思います。

今、日本のアートマーケットは、未だかつて無い若手重視の時代を迎えています。
多くのギャラリストが大学の卒業制作展に出かけ、有望な人材をスカウトするといった光景があたり前になりつつあります。
もちろん、アーティストを志す若い作家にとって、ありがたい話しですし、結果、作品の完成度は、私が学生だった頃とは比較できないほどにレベルUPしているようにも見えます。

ただし、現在の日本のFineArtを語る上では、村上隆を語ることがあたり前と言われる程に困窮している…というのが現実だと思います。
彼のような作家を目指す若手は少ない・・・という話をよく耳にしますが、はたしてそれは本当なのでしょうか。

美術家を目指す若者は少なくなったとは言え、アートマーケットは依然として健在です。
アートグローバリズムに異議を唱えることもまた自由ですが、アートマーケットは確実に、そして、したたかに進化してきているのです。
村上隆は、そんなアートマーケットの存在を顕にすると同時に、現代美術とはなんなのかを雄弁に語りながら(私には疑問が多いけれど…)
「アートマーケットに於いては話題性こそが価値」…と言うことを言ってのける貴重なアーティストなのです。

アーティストがアートマーケットを視野に入れることは決して間違ってはいません。
村上隆がいなかったら、アーティストを志す者は確実に減少していたことでしょう。
潜在的に彼に学び、さらに彼を越えようとしているアーティストは既にたくさんいると思います。卒業制作が幾らで売れるかを計算しながら、2年後3年後の戦略を練るアーティストが増えれば増えるほど、村上隆の作品はより高額の値で取引されるようになる。
かつてこれほどまで直接的に、Artの純粋無垢さ故の脆さを表現したアーティストはいませんでした。
その意味からすれば、宮島達男が芸術系大学の職に付くことよりもずっとずっと意味のあることだと私は思っています。
・・・と言いつつも、私は彼(村上)の表現が全く好きではありませんが…。


私は27歳になってから始めてニューヨークに行き、当時のアメリカのArtを目の当たりにしました。そこで印象に残っているのは、二十歳そこそこのアーティストの表現力の幅広さと、堂々たる態度。そして、アートマーケットにデビューするには年齢制限があるという現実でした。
当時と比較すれば、世界のアートを巡る状況に多少の変化はあるものの、表現の多様性は益々重要視され、それと同時に、アートマーケットは、より売れる作品を求める傾向にあります。安く仕入れ高く売る為には、利幅の大きい、若手作家がより重要視される…
当時のNYで聞かれた状況が、ようやく、アジア…おまけとして、日本にも訪れた感があります。


日本であること…。
CommunityArtを巡る様々な課題もまた、日本が培ってきた文化があるからこその歪です。
それは制度しかり。

イギリスのCommunityArtに学ぶことは多いとは思いました。
イギリスにはイギリスのArtがあり、イギリスのCommunityがあるということを聞きながら、
私たちは今、日本においてCommunityArtを確立すべきなのかどうか…ということをずっと
考えていました。
なぜなら、そこのところが最も大きな私の疑問でもあるからです。

「自分が暮らす町」という単位に焦点を合わせてみても、町というCommunityと日本のArtの関係性であるという点においては大差ありません。
多摩の3Kとも表現される一つ…くにたち市というCommunityにおける文化芸術政策のあり方を考え、提案し続けてきた私たちにとっても、「資金が足りない」が前提条件として横たわっています。
限られた予算を如何に配分するか?はもちろん大切なこと。しかし、現行の制度がどうであれ、「やる?やらない?」を、常に自分は問われているのだと思う今日この頃です。

CommunityArtに可能性がある・・・と信じるのであれば、やるしかない。
それができる人がやるしかないのです。
解釈の変化はあれど、おそらく今後も、CommunityArtが不必要になることは無いでしょう。
「資金が足りない…」、全体予算枠に対するパーセンテージからすれば、それは事実ですし、少しでもCommunityArtに可能性を見出そうとしている者からすれば、だから制度によってそれを増やしたい…と考えるのも当然だとは思います。

でも、もう一度よく考えてみる必要性があるのではないか。
CommunityArtは本当に資金を欲しているのかどうか?ということを。

私は、Artには私たちがCommunityにつくってしまった、大きくて深い溝の上に架ける橋となり得る可能性がある・・・と信じています。
とは言え、いくら信じていようにも、資金に縛られているし、事実、様々な活動をする上でその問題はとても大きい。
…でも、それは私がそれをしているから…であって、Artの可能性そのものは、私に資金があろうがなかろうが変わることは無い…。
ようするに、「Artの可能性が大切なのか?」あるいは、「私がそれをすることが大切なのか?」
という答えの先に、資金という壁は現われるのではないだろうか…ということです。

私はこれまで、「無いのなら無いなりに…、有るなら有るなりに・・・」の中でやってきました。
それでもどうにもならないこともあって、今はまだ実現できていないこともたくさんあります。
しかし、無いものは無い…それが事実ならば、「無いからつくるしかない」そうやってもがいていると、不思議なことに、その先に様々なCommunityが見えてくる。
つくるために、Communityと関わって行くうちに、つくろうとしていたものを変化させざるを得ない…。
そうしたモノやコトは、限りなく完成には近づくけれど、いつまでも自分の手から離れず
結果、いつまでも関わり続けることになる・・・。
こんな状態がもうずっと続いています。

…でも、この状態こそが、Communityへと発展するのではないだろうか?
そう、思い始めたのは最近です。


CommunityArtとはこういうもの・・・という概念が明確化され、「…あなたのやっていることはCommunityArtですよ」と指摘され、そうしてそこにつくられるものがあるとすれば、それは、「CommunityArt」というコミュニティーぐらいなもの。
日本人は一つのコミュニティーへの所属意識がとても強い。
これは長所でもあり短所でもある…

私自身はもちろん日本人ですし、コミュニティーの不在は自分にとってありえないと思っています。そのコミュニティーの希薄さや、コミュニティーの不在からくる様々な心理的不安感は、精神的障害に直結していることも明らかです。
私が主宰するPlanterCottageでもそれが話題となることはとても多く、不登校や引きこもり、鬱や依存からくる様々な暴力が日常的に存在することをたくさん感じてきました。
だからと言って、私が提示するワークプログラムは、そのような不安感を解決する為のプログラムになるとは考えていません。
精神的不安や肉体的痛みは、想像はできても、変わったり、分けることはできないもの。
痛みや不安は自分だけのものなのです。

痛みや不安が自分だけのものであるならば、Artもまた自分だけのもの。
おそらくそこではArtが何らかの形で関わることができるのかもしれない。
共有することのできない痛みと痛みを繋ぐもの・・・
それもArtの可能性の一つだと私は思います。

私は偶然にもArtという生き方を選択しました。
そして、自分自身はArtに於いてはどこのコミュニティーにも所属してこなかった…、
いや…正確に言えば、ある時から、ArtそのものにとってはCommunityは必要無いもので
あり、ArtCommunityは存在しないと思うようになった。だからこそ、その逆にCommunity
を強く意識するようになったのかもしれません。
今後どんなにCommunityArtが社会的に認知されようとも、CommunityArtがArtの本質を
含むものだとすればCommunityArtはCommunityArt。
もしCommunityArtがCommunity化した場合、私はそこに所属することは無いと思います。

Communityが連帯や共同体の意味を持つならば、Artは個人的で固有のもの…その意味か
らすればCommunityの対極にあるものがArtなのかもしれません。
ようするに、Artの本質は連帯や共同体があれば築かれるということでは無いし、極端な言い方をすれば、人々をCommunityから全て開放する性質を持つものがArtとも言えると思っています。
もちろん、共同制作という製作方法はありますし、その結果として芸術性の高いものがつくられたりすることは多々あります。
しかし、「それがArtであるかどうか?」あくまでも個人的な領域に属すもの。
それを判断できる自由を獲得する力・・・それこそが私たち自身の中にあるArt性なのではないでしょうか。

「私とは私以外の何者でもない私」
あなたと私は異なる存在だけれど、あなたにも「私」があって、私にも「私」がある。
私が私という存在を認めること…、それはArtにとって欠かすことのできないものです。

だからこそCommunityはArtを求め始めているのかもしれない・・・。


そもそもなぜ、CommunityArtなる言葉が必要となるのでしょうか?
私はそれに対する答えとして、
「社会においてArtが独占されてしまっているから」だと考えています。

Artは全ての人々が享受できるものであって、特定の人物やCommunityが占有できるもので
はありません。
しかしこれは、人類が長い歴史の中、数え切れないほどの命と引き換えに、つい最近になってようやく得ることができた貴重な財産でるあることを私たちは忘れがちです。
Artの背景には、膨大な遺伝子の蓄積があるのです。
時の権力者は常に人々のArt性を独占しようとしてきた…、言いかえれば、Artは権力によって常に管理されていたということであり、これを独占する者こそが権力を手中にできたということなのかもしれません。

そのArtが、今まさに、独占されつつある…。
CommunityArtという言葉が生まれる背景には、一部によるArtの独占に対する強い危惧
感があるのかもしれません。
少々きな臭い表現ではありますが、CommunityArtの成立にとって「権力」はとても大きな関係があることは確かなことだと思います。

その現われが、いわゆるアーティストではない人々・・・
(…既存の表現者では無い人々、それは=様々なCommunityの住人)が、CommunityArt
という言葉を用い始めたということ。
Artは独占されるものでは無いはず、Communityそのものが抱える危機感を脱するために
、Artに可能性を見出そうとしているのではないだろうか?
その結果がCommunityArtの出現なのだと思います。

事実、CommunityArtはそれを社会において実現する為に、デザインも、建築も選択しているし、方法としての選択はそれがスポーツでもあっても、科学で有ってもそれは可能なはずなのです。
ダンスや舞踏などの身体表現芸術もスポーツも、「身体」との関係性に於いては限りなく近いところにありながら、スポーツはスポーツであってArtとは捉えられていない。
スポーツ選手がCommunityArtというチャレンジに自分たちが関われるとは思っていない…。
結果として、CommunityArtに必要な人材は常に不足するといった状態になるのは当然の
ことだと思います。

ここに必要なのは、どんなCommunityArtか?という内容では無く、「大丈夫…、一緒にやろうよ!」というきっかけづくりだと思います。
ここに於いては、CommunityArtであるかどうかはまったくどうでも良いことだと思います。

今さら言うことではありませんが、やはり『人を育てること』こそが重要。
もちろんそれは、CommunityArtにとってだけではありません。
「人を育てる環境」をないがしろにして、形だけのCommunityの確立だけを急げば、必ずやお金は足りなくなり、結果、「Communityはお金を浪費するもの」になってしまいます。
ある意味、こうしてCommunityは次第に希薄になってきたのだし、それを何とかする為に
CommunityはArtを選択しようとしているのであれば、やはり、「Artとは?」そしてCommunityにとって必要なArtを見出す必要性が益々重要になってくると思います。

社会がどう変化しようとも、学校が「人を育てる場」であることは確かです。
しかし、グローバルという波は学校に押しよせ、学生たちをその波から守る防波堤は既に崩壊しつつあるといった状況です。
学校が社会と繋がるきっかけをつくることは非常に大切なことですが、あくまでもそこが「人を育てる場」である以上、決して波にさらわれないように絶対に守ってやる…という覚悟の上に、社会との間に橋を架けるべきなのではないかと私は思っています。
そんな学校が日本には今どれだけあるのでしょうか?

自分がこれから何をしようとしているのか定かではありません。
しかし、「人が育つ為に必要な場づくりがしたい」それだけは間違いないと思っています。
by riki-tribal | 2009-01-12 00:07 | Artあれこれ
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