*by rikitribal | 2005-01-26 23:25
3つのエコロジーの話 このところのネットサーフィンは(この言葉、最近はあまり聞かなくなった・・・)世に存在するありとあらゆる学問という大波に乗りつ揉まれつしている。 ・・・と言うとなんか格好良く聞こえるが、ようするにそれだけネット上には学問があふれているということが言いたいだけのこと。 いまや下に「学」をつければ何だって学問になってしまうんじゃないかと思うほど。 もちろんしっかり認知された学問とそうではない学問にはそれ相応の違いはあるが、既にジャンルの壁を越えた学問の交流は盛んなことは間違いないだろう。 いずれにしてもインターネットと学問は切り離せないものになっている。 この学問には学者という人間がセットになっているわけで、学問もさることながら、この学者という世の中の特別枠に生きる人々はとても興味深い。 一般的には幼少の頃から頭のできがすこぶる良かった方々にこんなことを言うと怒られそうだが、でもはっきり言ってこの人たちは私と同じ。 今の世の中では、使えるか使えないか紙一重の人たちという点では似た者どうしってことなのだ。 (・・・・ちょっとだけ前振りで触れようと思った話題がこんなに長くなってしまった。) さて、私が学者と聞いて思い出すのが南方熊楠。 (町田町蔵が熊楠を演じて映画化する話があったが中断、その後の再クランクインは一体どうなったんだろう?) 熊楠といったらまず粘菌の研究を思い浮かべるが、同時に民俗学者であり、曼荼羅の思想家、哲学者でもある。 そしてそのどれもが互いに切り離せない関係性を持ち、その何処からでも南方熊楠という人間性が少しも薄れることなく存在することは何とも興味深い人なのである。 数多い南方熊楠の文献の中の一つ。 「森の思想」では、当時の政府が決定した神社合祀に反対する運動を行うことになる記述がある。 そこに端を発して顕わになる「森の思想」 ここのところずっと(何年かになる)私の中にあるモヤモヤとしたものも、もしかすると南方熊楠の思想に近いのかもしれない・・・・なんて言うとちょっと自分を褒めすぎかもしれないが・・・。 河出文庫から刊行された「森の思想」には、中沢新一氏(オームの一件以来あまり表には出てこないが・・)の解題があって理解しやすいので引用して・・・。 「神社合祀反対の運動をとおして表明された、南方熊楠のエコロジー思想においてはこれら三つのエコロジーが、ひとつに結合されようとしていた。ナチュラリストとしての熊楠は、生態のエコロジーにたいする危機感から立ち上がったが、同時に民族学者としての熊楠は、それが社会のエコロジーの問題に深くリンクしていることを理解していた。そして、森の秘密儀に通じたマンダラの思想家としての熊楠は、その問題が精神のエコロジーと結びつかないかぎりは、けっして豊かな未来を開くものではないと見抜いた。彼は、東アジア的な生命論から出発して、未踏のエコロジー思想の存在を、はっきりと予告したのだ。南方熊楠は、いまだに、私たちの前方を歩んでいる。」 「生態のエコロジー」「社会のエコロジー」「精神のエコロジー」 この3つのエコロジーがバランス良く結合することによってつくられる場所が森という姿であり、そこに暮らす人々そのものの姿だと思っている。 その森の存在が保たれることで私たち日本人の暮らしは保たれてきた。 私たちが暮らしている土地やそこに暮らす全ての生き物の存在を知り、この状態を保つ精神とそれをはぐくむ社会構造を持つことこそが「森の思想」であって、その思想を持つことによってのみ私たちは、この土地に存在することを許されているような気がしてならない。 by rikitribal | 2005-01-26 23:25
by riki-tribal
| 2007-07-03 21:38
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